今日は、私が現在学んでいる『五行陰陽論・帝王学』の講座で心に深く残った、子育てにおける「厳しさ」についてのお話をシェアしたいと思います。
「転ばぬ先の杖をつかない」
先日の講座で「子育てにおいての厳しさとは何か?」という問いが出たとき、
小池康仁先生はこう答えられました。
「それは、“転ばぬ先の杖”をつかないことです」
この言葉に、私は強くうなずくと同時に、自分の過去を思い出していました。
私自身、娘の子育て中、この「杖」を何本も何本も、先に差し出していたからです。
今から6年ほど前、心の学びを始めた頃
私は娘との関係で悩み、心理カウンセリングを受けました。
そのとき、カウンセラーの先生にこう言われました。
「子どもの学びと成長のチャンスをうばってはいけない」
私はハッとしました。
そして、涙が出るほど悔やみました。
私は娘を心配するあまり、必要以上に手を出していたのです。
転ばせたくない、傷ついてほしくない、
そんな愛情ゆえの行動だったのですが、
それは本当の意味で娘の力を信じることとは違っていました。
子どもが自分で経験し、学び、立ち上がるチャンスを奪っていたと思います。
そう気づいた私にできること
それは素直に娘に謝ること、
そして、言動と態度を変えることでした。
「親離れ・子離れは、早い方がいい」
先生はもう一つ、こうもおっしゃっていました。
「親離れ・子離れは、早い方がいい。」
これは決して“突き放す”という意味ではありません。
子どもを信じること、子どもの力を尊重すること、
そして“自立できる環境”を整えていくことが、親としての本当の役割なのだと学びました。
「完璧でない大人が、不完全な子どもに触れるほど、子どもは壊れる」
この言葉は、孟子の言葉として紹介されていました。
ドキッとする言葉ですよね。
子どもが6歳なら、母親もお母さんとして6歳
私は娘が24歳だから、母親として24歳
何歳になっても完璧になんてなれないのです。
そもそも人間は完璧ではないですから。
私は子どもに触れすぎていたと思います。
どれくらいの悪影響を与えていたかと思うと、本当に懺悔しかありません。
でも同時に、こうも思います。
「その時できる限りの愛情で接していた自分」にも優しさを向けてあげたい。
「私の娘は私の娘であって、私の娘ではない」
娘は私とは異なる人生を歩む、ひとりの人間。
私は“親”として関わってきたけれど、それ以上でも以下でもない。
「娘は私の所有物ではない」
親子であっても、魂は別のもの。
生きる道も、感じることも、選ぶことも違う。
娘は、娘としてこの世界に生まれ、娘自身の人生を生きていく存在です。
今は、娘の存在に敬意をもち、彼女の人生を100%信じています。
「帝王学」が教えてくれた、親の役割
帝王学の学びの中で、親ができるのは
衣食住と
子どもの「宿命」に合った環境を整えること
人にはそれぞれ「宿命」といって生まれもったものがあります。
その子がその子らしく、魂のままに生きられるように、
その子の宿命にあった環境を用意することが親にできる唯一のことなのです。
(宿命は生年月日からわかります)
子育てに「正解」はない
私は、これまでたくさん悩んできました。
「こうすればよかったのかな?」
「あのとき、どうしてあんなふうに言ってしまったんだろう」
でも、今思うのは、
「子育てに正解なんてない」ということです。
親にとって良かれと思ったことが、
子どもにとっては負担だったこともあるでしょう。
親が良かれと思って与えたものが、
子どもの欲しいものではなかったかもしれません。
それでも、すべての根底に「愛」があったなら、
それでいいと、私は思います。
子どもは自分の人生を生きる
親は、子どもを導きたいと思います。
でも本当は、私たちが導けるわけではありません。
子どもは、自分で選び、自分で歩いていくのです。
その道を照らす“灯り”になれるように、
親は、ただ静かにそばにいればいい。
過去を責めず、今を育てよう
正直、「あのとき、こうしていれば」
「あんなことしなければよかった」
と思うことはたくさんあります。
でも、そのすべての経験があったからこそ、
今こうして学び直すことができ、
伝えたい言葉を持てているのだと思います。
子育ては、一度しかない。
だからこそ、過去を責めず、
今できることに目を向けてほしいのです。
親も子も、共に育ち合う存在。
完璧じゃないからこそ、愛おしい。
このブログが、どこかの誰かの心に、
そっと寄り添えるものでありますように。